長野県更級郡桑原村(現:千曲市桑原)生まれ。典型的な小作農家の7人兄弟の第6子。
絹糸を紡ぐための最初の工程、蚕の紡いだ原料(屑繭・生糸製造の前行程で出る屑生糸・繭の中心部で生糸を紡げない部分)を腐らせ、ニカワ質を洗い出し、フィブロインのみを取り出す作業に従事。
近江絹糸の勤務を昼専(8:00〜17:00勤務)に変更してもらい入学。1958年に「高校程度の学力を得る」という当初の目的を達したので中退。
1958年に近江絹糸を退職、彦根東高校を中退し、長野に帰る。国土開発青年隊に入り、ダム現場での作業で生活費を得ながら、建設機械の施工と構造、数学、自動車構造等を学習。
長野県の紹介で陸上制作課に就職。水道鋼管の塗覆装工場の担当となる。後に船殻部組立係に移籍、鋼管塗装以外に、工程管理、係内工事の制作図、施工管理等の作業に従事。
彦根時代の仲間、辻保治氏に請われ、日中貿易、対ソ貿易に関する日刊紙の営業と記事の送稿に従事。
日中貿易を専門に行う千曲産業で、輸出入の交渉に従事。
備前屋商店は菓子製造卸しの会社であったが、中国商品の販売店の運営をまかされるべく就職したが、2ヶ月で退職。
中国の書道用品を主に、掛け軸等の卸し、小売りを扱う中国工芸社に勤務。
管理職として、大阪ガス、中部ガス、大阪府水道局、大阪市水道局、三重工業用水等の工程、技術管理に従事。1998年退職後も2005年頃までサンエイ工業の仕事に不定期で参加。
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